[一号館・二号室の画像資料は全て 奥村滋夫氏(三四会)の提供によります]

曲を聴く場合はクリック(今のところ、Internet Exprolerのみで作動します)

  一号室の年から少しさかのぼってみよう。ちょうど一号室の3年生が入学したての頃の応援歌練習である。この年には「新体育館」完成していたので、応援歌練習はそちらで行っても良かったのだが、学校側も生徒側もそれぞれの都合(学校側は新体育館を汚したり傷つけたくなかったし、生徒側は自分達の受けた「丸太ん棒」などによる怒濤の洗礼を新入生に受けさせたかった)があり、木造の古色蒼然たる東控所(=東講堂(剣道道場、体操部・卓球部練習場)または2体育館とも言った)を使用した。したがって「太丸太」は持ち込む、側の羽目板は思いっきりひっぱたくなど、原始的な音響効果とおどろおどろしさ抜群の応援歌練習となった。それでもこれは、我々が2年前受けたあの天地がひっくり返るようなものすごさと比べると女学生のコーラスなみだったかもしれない。

  血潮の旗の征く処   桂冠此処に八十年(幾星霜)   我が光栄と輝きて   遮る者の無かりしに   あな仇人の鬨の聲   友よ鉾取れ戦わん       緑に燃えし原頭哉   勝たずば止まぬ雄心に   血を啜りけん青衫の   誓いの跡を今此処に   又繰り返す勝ち戦   友よ鉾取れ闘わん 

                                 (サウンド出典;原 秀行氏HP(midi規格))

 この体育館は、一号室で述べた旧西体育館よりは狭いが造りはそっくりである。窓は高く四方に腰板が張られており、それもつぎはぎだらけである。したがって、少々乱暴にひっぱたいて割れてしまっても修理は簡単である。先生に言うまでもなく、板きれを見つけてきて釘で打ち付ければよい。左の写真で中央右手に縦に白く見えるのが、例の「丸太ん棒」ある。帽子を脱いでM旗の方を向いているのが新入生、帽子を被って新入生の間に居るのが3年生である。丸太の側に3年生の姿が見えないのは、多分新入生より背の低いのが持っているのであろう。このケースでは一本しか見えないがあと数本はあるはずである。それを持ち上げ太鼓の音に合わせてドーンドーンと床に落として響かせるのであるが、やる方も相当の体力がいるのである。しかし、効果はなかなかのもので腹に響くような振動と音で気合いを入れ、それに負けない声で新入生にガナッてもらうのである。 

  しかしながら、最上級生としてはただただ新入生を威圧し、自らの歌声で圧倒するだけが応援歌練習ではない。上級生の威厳を示すだけでは心から我が「白堊校」の校歌・応援歌を歌いたくなるわけではなく、ビジュアル的にもリーダーとしての力量を示す必要がある。我が校の場合、それは應援委員会のメンバーによる旗振りである。三人でも五人・七人でも旗のが太鼓に合わせてみごとに揃って振る者の左右の体側でクルクルと回るように振れば、それを見ながら歌うことによって歌声の方もリズムが揃って声もよく出るようになる。

 旗振りの基本は、まず正面から見ていつもが見えていること。そのためには体の前で下方から上方にクロスさせて、体側で回転させることが重要である。右の写真では、右手の甲を上に右下方からMを逆さまに見せながら左肩口に上げて肘を上げるようにして今まさに回さんとしているところである。手首によってひねり回して1回転させ手のひらの方を(もちろん旗竿を握ったまま)上にして、左下方からまたを逆さにみ見せながら右肩口に上げ、今度は肘と手首で回す。これの繰り返しである。後年の遅いリズムと違って当時は、行進曲のリズムで校歌・応援歌を歌っていたからこの振り方はかなり体力を使う。試しに傘かゴルフのクラブで試してご覧あれ。結構しんどいです。

 

  下の例は上の説明で、手のひらの方を(もちろん旗竿を握ったまま)上にして、左下方からまたを逆さにみ見せながら右肩口に上げ……というところである。瞬間的なカメラのシャッターでとらえても、ほとんどズレは見られないのを分かっていただけると思う。実際に動いているところを見ればぴたりと揃っているのである。それに向かって右方者は隣を見なが振りのスピードの微調整ができる。これを5人でやれば、人数が多くても。どのリーダーに合わせても同じリズムで歌えるのである。[旗振り:右 奥村委員、左 田村委員]

 

  旗振りのほかにも、応援団の心を一つにまとめて意気を高める方法がある。扇子による「三三七拍子」、お椀か扇子による「お代わり来い」、みんなで肩を組む「ああ愉快なり」、実際の応援での人文字等々。それと「白堊太鼓」がある。現在でも形を変えて残っているようであるが、いわば「パーカッション」とでも言おうか。その中でも「三三七拍子」は名手のリードによると抜群の効果を発揮して、応援団の気持ちを統一し一気に昂揚させるのである。

 扇子を担当する應援委員は数々居れど、この写真の谷藤君ほどの名手はなかなか見ることができないのではないだろうか。この時代はもう一人、大立目君が扇子を担当していたが、こちらも相当の者であった。しかし、扇子裁きといい、リーダーシップといい谷藤君が一歩リードしていたようである。当時、扇子も我々が一通りの「形」を決めた。先輩のやり方はその人によって違いが大きすぎたので、手拍子が乱れてとてもやりにくかったのである。そこで、各拍子の前にリーダーが必ず両腕を大きく回し、応援団が「ワーッ」と声を上げながら拍手してタイミングをはかる。という風にした。それと片手で大きく扇子を動かしているときに、空いてる方の扇子も小さく動かし休めないようにする。これで、見栄えが非常に良くなった。(5号館:中堅会で着物姿が谷藤君である。彼は応援に行くときは、扇子のリーダーとしての活動をしていたのでこのような姿が多かった)

 写真では「三三七、よーういっ(用意)!」の瞬間である。このあとこの姿勢のまま大きく体を沈め両扇子を体の前で小さく震わせながら。体を大きく伸ばして扇子を頭の真上まで上げ、腕を両側にのばしながらまた下げて、真下で両手を揃えて瞬間的に上下させて「ジャッ」と決めて拍子に入るのである。これも、やってみるとなかなかきつい。

 

 一週間に及ぶ「応援歌練習」が終わると、新入生も奮闘のかいあって、校歌・応援歌も頭に入り声も大きく出せるようになって一丁前の「白堊健児」となる。その間いわゆる「文化部狩り」で強引な運動部への勧誘や、いきなり「正座」させられて「説教」などと称して足の痛さだけが記憶に残るような「しごき」にもあうが、そこはそれ白堊健児になるためのセレモニーとでも言ったらよいだろうか。今でも「あんな理不尽なことはなかったッ!!」とイカッテ(怒って)いる諸氏・諸嬢が居るが、お気持ちは重々分かります。しかし、最初が肝心、気合いを入れて一気に覚えてもらわないとみんな勉強に追われるか、没頭するかで「巉峭峙つ起伏の岨」なんて覚えてもらえない心配があるのです。 左の写真は「説教」ではなく、練習を終えて「新入生ご苦労さん」と労をねぎらっているところである。鬼の目にも涙ならぬ「鬼の上級生にも笑顔」である。

 かくして応援歌練習も終わり、あとはそれぞれの部活が忙しくなる。もちろん様々な「テスト」や普段の授業も捨ててはおけない。館長の場合一年生の時は一週間のうち午後7時前に家に帰ったのは一日ぐらいだったような気がする。朝練も休日練習もあったし、ともかくいろいろな意味で「盛岡一高」に首までドップリ浸かっていた。応援歌練習が一番楽だった。

一号室へ

 

本館へ

戻 る

二号館

寄宿舎

三号館

運動会



四号館

応援団

五号館

白堊三四会

別 館

電子掲示板