白堊應援團 30 > 四号館 一号室 應援委員会の活動 Updated2015/07/01

應援委員会の活動

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見よ新緑の色深く  生気溢るる白堊城  重き使命を身に浴びて  健児一千青春の  胸は望みに高鳴りつ 雄叫ぶ姿ああ偉なり         天地もとより我が幸ぞ  人の和ここに一団の  炎と燃ゆる応援旗  選手の意気は天を呑み 自在の威力此処にあり  いざ闘わんいざやいざ

 春の行事

 応援歌練習新入生歓迎キャンプ市民体育祭などが終わり夏休みがと近づくと高体連・国体予選高校野球と応援団の出番が多くなってくる。どんな試合でも極力応援に行くのが応援委員の勤めである。授業などは問題ではない。白堊健児が闘っているのである。一人でも二人でも誘って「応援団」を組織し、我等が激声とM旗のはためく音をもって敵を圧倒し、精神的に萎縮せしめ我が勝利を導き出すのである。我が校の応援のすさまじさに他県から遠征してきたチームの監督の中には、恐ろしい剣幕で応援団に怒鳴り込んでくる者も居た。中には暴力団養成所のような大学を出た教師も居たので、暴力を振るってくる例もあったが、そんな学校に負ける我が校ではない。見事に勝利をあげさらに上の大会へと出場した。何はともあれ、そのような強力な応援のためにはアップテンポで歌いかつ旗を振らければならない。そのために三四会応援委員はそれまで比較的個人の裁量に任されていた旗振りを統一し、体の左右で回転し前を斜めに横切る時の角度まで一致するようにした。その結果、校歌・応援歌のリードのため一度に多人数で旗を振っても全員が同じスピードで旗が振れるようになったまた三三七拍子のリードの扇子についても空いている方の手も動かして見栄えよくしたり、「おかわり来い」ではお椀扇子を使って効果的な応援ができるようを工夫した。お椀の使用は「対戦相手に失礼」とかいう理由で禁止されるようになった。
 写真は花巻への遠征(32年)宿泊したお寺の前に立つ館長
 

 確かに陰気くさい教室で陰気くさい授業を受けているよりは、明るい太陽の下白堊のの同志の健闘を応援する方が心が晴れやかになる充実した気持ちになる。もちろん授業が大事、学問こそが生き甲斐であるという者も我が学校の場合居て居て当然である。勉強だって脳味噌の運動であって大いに腹も減るし体力も使う、たまに授業に出るとサッカーやラグビーをやっているときよりも栄養が必要だ。そこで2時間目に弁当を食べたくなる。食べるとなくなるから他人のものか下級生のものを頂戴することもたまにはある。ただし、寮生は昼までは食事が出来ないのでつらい。また、応援委員もただ応援するだけのために授業をサボッているだけではない。応援の準備もある。野球応援のための「フクちゃん」を作ったり(種々の部の協力があった)、当時は岩大工学部の寮に有った大太鼓を借りにいったり、人文字のための団扇の色塗りなど大忙しで、その合間に各部の壮行会や応援、岩手公園での高体連結団式のための市内行進の許可をもらいに行くなど一年生の方がよっぽど楽だった。そしていよいよ高校野球夏の陣の始まりである。

 の写真は、高体連の入場行進である(昭和32年頃、出典:白堊 4号)。先頭が盛岡一高体育部の旗で、後ろに続くのが前年度獲得した各部の優勝カップや優勝旗である(当時は、高体連総合優勝10連勝中)。さらにその後ろに他校が続く。優勝校が先頭なので応援団も誠に気分が良かった。当時は柔道を始めハンドボール、サッカー、バスケットボール、バレーボールなどもちろん野球も強かった(県大会優勝)。盛岡工業、黒沢尻工業と二大強豪のある中でラグビー部も県大会で2位になった。また、女子も一部の人の掛け持ち出場ながら色々な種目に好成績を収めていた。当時の白堊校の教育は「文武両道」で、スポーツも学問も両立させて初めて一高生である。などと言われたが、これがなかなか難しい。

 
夏の野球は二十年代は岩手、秋田、青森の三県ので代表決定戦を行っていた。三十年代は岩手、青森の二県で各県2校ずつ出て代表を決めたそれがいつまで続いたかは分からないが、確か三沢高校の太田投手が一年の時は盛岡市営球場に試合をしに来たと聞いている。次の年に彼は劇的な戦いを甲子園で繰り広げた。今では八戸高校なども我が校のような「バンカラ」応援のようようだが、当時は大学の先輩らしき者がいわゆる応援団風の腕の振りだけでリードしていた。最近では一高の真似なのか猫も杓子もバンカラ風だが(東北北部だけか?)時代に逆行しているような気がする。本物の「バンカラ」は姿形ではない。日常生活から(全てが貧しい時代だから)滲み出てくるもので応援委員も運動部も文化部もなく質素で剛健な生き方である。戦前から代々受け継がれていると言われている学生服や帽子など我々の頃すでに存在していなかった。ただし、マントは自彊寮に数着あった。

 夏の甲子園大会予選は、三十年代前半は出場校数の関係か、一高は市営球場(岩山の下)で試合することが多かったが、後半は駅の側の盛鉄球場での度々行われた(右の写真)。この頃になると、社会は経済成長の波に乗り始めたためか一高生の着ているものがよくなり、とても「弊衣破帽」などと言えなくなってきていた。木綿の学生服などほとんど居なくサージの服に履き物は革靴やスニーカーで下駄や高足駄は少数派になってきた。応援委員にしてもしかりである。そこで私(星)は剣道部から

剣道着を借り洗い晒しのものを着て雰囲気を出すように提案し、応援委員会の賛同を得て実行した。それが現在に至っているのである。当時の流れからいくと近い将来大声を出すの者も居なくなって、他校と同じような応援になると思い中央執行委員も兼務していたので、将来に備え「ブラスバンド部」を造ることにしたが、今も使っていないようだ(当時は校歌は応援団の方を向いて旗を振ることが多かった。写真中央立っているのが星、アルバムより)。
 
次代の応援委員の養成も欠かせない任務の一つだ。半年も眺めていれば下級生の中で見込みの有りそうな者や応援好きの人間が分かってくるそこで、応援委員養成キャンプを区界で行った。これは親睦をかねたもので、新入生歓迎キャンプと違ってあまりプレッシャーはかけない。同じ釜(飯盒)の飯を食ってともに歌いかつ裏話などをして。必要な知識を伝達するのである。また、前期試験の休みを利用して同級生でマント着てリュックサック背負って旅行などにも行った。それらについては二号室に展示した。

 ここで最近の応援旗の振り方を見てみよう。昨年(平成10年の夏、ちょうどさんさ踊り頃に帰盛した折り、一高教員の山田君(三四会)に「100周年記念刊行」の校歌のレコードの再生録音をお願いし、ついでにやはり三四会でラグビー部・応援委員会顧問の川上君に会ったら、「応援団の練習でも見たら、もいるよ」と言うことで屋上に上がり「30年代の旗振り」を披露し「平成の旗振り」をカメラに収めた。下の写真がそれである。我々の頃とは相当に異なるように思えた。ただし、一頃の「

 「ハエがとまる」ような間の抜けたリズムはだいぶ改善されて何とかペースを会わせて歌える位であった。70年安保の頃校歌の曲を「ショスガッテ」わざと違う曲のように間延びして歌ったとかいう説を聞いたことがあるが、真偽の程は確かめていない(下右端の写真で看板を掲げているのが応援委員会マネージャーである。その役割は委員会の事務的なこと(公認欠席の取得:現在は授業中勝手に応援には行けない)や選手名の掲示などであり、正式な応援委員の補佐をする。

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