白堊應援團 30 > 四号館 二号室 中堅会の結成 Updated2015/07/03
中 堅 会 の 結 成
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血潮の旗の往くところ  桂冠此処に八十年(百星霜)  我が光栄と輝きて  遮るもののなかりしに  あな仇人の鬨の声  友よ鉾とれ戦わん        緑に燃えし原頭や  勝たずばやまぬ雄心に  血をすすりけん青衫の 誓いの跡を今此処に また繰返す勝ち戦 友よ鉾とれ戦わん

應援委員会の役割

 應援委員会は運動競技の応援のみならず、応援歌練習・新入生歓迎キャンプ(山岳部と共催)・運動会(dojin踊り・ファイヤーストーム)・高体連結団式および風紀委員として制服着用のチェックなど様々な活動を行っていた。そのほかに後輩の中で「應援委員会」に興味を持ち應援委員として活動しようと者を見つけだし養成しなければならない。また、應援委員相互の親睦と団結を兼ねてキャンプや旅行を盛んに行った

 新入生歓迎キャンプなど白堊健児に好んで用いられたキャンプ場は、「 外山ダム」や「区界」の兜明神岳山麓であった。我々2年生の應援委員と1年の應援委員候補の親睦・訓練キャンプは区界で行った左はテント前での昼食。

 右は区界駅頭で(後列左より、佐藤、谷藤、佐々木(1年生)、後列左より、田村、奥村、星)

 

 昭和32年10月、前期期末試験の後の休日を利用して應援委員会の「十和田旅行」を行った。部活の関係で参加できない委員も居たが総勢8名で花輪線とバスで十和田湖から奥入瀬渓谷を経て帰りは八戸の港を見物し東北本線で盛岡に戻る1泊2日の旅行であった。早朝リュックを背負いマントを着て三々五々盛岡駅に集まる姿はあたかも終戦直後の「担ぎ屋(行商人)」のようであったが、我々は意気揚々と列車に乗り込み出発した。途中の駅で伊藤(猛)君の親からの差し入れなどがあり、そのうえ、旅のセールスマンと知り合いになっていろいろおもしろい話を聞かされ、社会勉強をしながら十和田にたどり着いた。今でこそ日本有数の観光地として賑わっている所であるが、当時は紅葉にも間があったためか閑散として我々を含めてバスの定員半分ほどの客がチラホラと湖畔を見物したり、土産屋をひやかしているだけであった。

 

当時の十和田湖は観光客も少なく「乙女の像」が寂しげに佇んでいた。 マントを着用した大男の集団が写真に収めようと近寄ると、 怖そうに裸身を小刻みに震わせて居るように見えた。

写真左:十和田観光バスの前で右:乙女の像前

向かって左より、伊藤(猛)、楢木、長沢、星

後列左より、伊藤、田村、星               前列左より、長沢、楢木、奥村

 

 そこで湖畔の「乙女の像」からほど近い林の中にテントを張り1泊することにした。程なく設営も終わり、貸しボートを借りて島に渡ったり、あちらこちらを散策しながら記念撮影をし、このときの十和田湖は遊覧船の運航が多くないうえに湖畔の旅館は現在のように林立していないので、廃油や生活用水の流入が非常に少なかった。そのために透明度が高く我々は迷うことなく夕食を湖水で飯ごう炊飯した(あとに後にして思えば、透明度が高いのと衛生的であるということは必ずしもイコールではなかった)。腹一杯食べた後、夜はたき火を囲んで様々なことを語り合い遅い眠りについた。その頃から応援活動に出席する白堊健児諸君の減少が應援委員会の悩みとなり始めていた。我々はおおいに危機感を感じており、その対策として2年の應援委員を中心にして1年の有志を募り強力な応援団のリーダーとしての集団を造ろうということもその夜の語らいの中で出ていた。これが次年度になって「中堅会」の結成につながっていくのである。

 左はキャンプ翌朝、宿泊場所にて、上右の写真の所から湖に向かって右手500m程の湖畔の林の中後方の建物はバンガローにあらずボートの収納小屋、右後方がテント。

今ならパトロールに禁止されるであろう

右は、奥入瀬渓谷の中程をバックに左より伊藤(猛)、星、奥村、楢木、田村、長沢、佐藤(功)

 

 秋から冬にかけては運動部の試合は少なくなり、應援委員会の出動回数は少なくなる。そこでほとんどの委員が運動部と兼務しているので自分の所属する部活に専念することになる。もちろん普段でも部活の方が優先されるのは言うまでもない。しかし、自分の所属する部の試合の場合は論外であるが、時として練習時間を割いて他の部の試合の応援に行かざるを得ない場合も多く、オフシーズンになると練習に専念できるのである。ただし、部活の後で他の人の目障り耳障りにならず自分達も思いっきり声を出せる北山などに集まって旗振りなどの応援技術の研鑽に努めた。勿論のこと下級生の中に希望する者が居れば「中堅会」の趣旨説明や勧誘を兼ねて動向を勧め、共に練習を重ねたのである。後継者たらんと希望する者も多く心強いかぎりであった。 

應援委員会の遠征

昭和33年應援委員会宮古遠征

 野球部などの運動部の対外遠征試合は公式・非公式を問わず非常に多くあった。当然招待試合もある。例えば80周年記念の「秋田高校」、「盛岡工業高校」、を招待してのラグビーの試合などである。ラグビー部といえばあの全日本選手権7連覇の「新日鐵釜石(釜石製鉄)」が創部したのを記念して「盛岡一高ラグビー部」が招待され勝ってしまったなどということもあった。また、岩手大学や自衛隊、県警機動隊、岩手医大などと試合したものである。かくのごとく昭和三十年代は運動部とともに應援委員会も遠征を頻繁に行っていた。下の写真は三四会、三五会の應援委員会の面々が「中堅会」結団式を兼ねて野球部の宮古遠征に同道したときのものである。学年の違いは関係なく(特に当時は様々な年齢層が1学年を構成していた)皆、母校の応援という一つの目標に向かって進んでいく姿は頼もしいものであった。

中堅会:会野球応援、宮古遠征(宮古八幡境内)[クリック]

中堅会結成を期し宮古八幡にて団結を誓う[クリック]

 

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