白堊應援團 30 > 二号館 一号室 寄宿舎

 応援団運動部寄宿舎はバンカラ学校である白堊校の三本柱と言っても過言ではない。応援団は、応援旗(M旗)、太鼓、マント、扇子等備品を自彊寮に置いてあり、運動部(一部文化部も)は春・夏の休み中には寮で合宿をする。また、多くの寮生は運動部に所属しなおかつ応援団としても活躍したのである。そのうえ学校の敷地内にある寮は、授業を自主休講した者たちのたまり場ともなっていた。もちろん寮生が全てバンカラだったわけではない、おとなしくもっぱら勉学に励み、良い成績を取り、先生の覚えめでたく、いわゆる良い大学と言われる所へ進学していった者も少なからず存在した。当然バンカラでも勉強し進学する者が大半ではあるが、運動以外では実力を出し切れない傾向にあったのではないだろうか。当時の建物は大正時代の盛中から使われていたもので傷みも激しく西門から入ってすぐ左手に一舎、二舎、三舎と並んでいたが、一舎は雨戸がなくガラス戸で、二、三舎は雨戸があったが使った覚えはない。冬でも障子一枚で外気隔てられていた。当時は寮生も少なく(各学年10名足らず)二舎の二階と三舎は教員宿舎となっていて、そこに住む定時制の教員の娘が二高生であった。だから一高から二高へ通うといった信じられないようなことがあったのである。その二高生が通るときわざと寮雨を降らせる悪い上級生が居た。一番奥に食堂や住込みの賄係の部屋や十畳ほどの集会室があり、そこでは伝統的な入寮歓迎会が執り行われた。

  頂雪溶くる雫をば 岩鷲の麓森深く 集めて走る北水を 我等が生にたとへなん 理想の草の露雫 盛寮の庭に受けよかし    夕べに燃ゆる雲の峰 月に消えゆく虫の音や 夜半の戸引けば風軽ろく 胸の音ばかり高鳴りて 時永遠の憧れに 盛寮の夜は明くるなり     あヽ雄大の秀麗を 朝の窓に望むとき 若人の血は燃ゆるなり 力に腕もふるうなり 栄えある城の礎を 盛寮の庭に築けかし

                                   

 

昭和32年自彊寮寮生及び舎監・教頭・校長(拡大)

第一舎横にて後方にフクちゃんが見える

 寄宿舎の生活はまず朝7時に下級生の起床係が各部屋の前で「トントン」と言って障子を開け「起床!」と連呼しながら廊下を駆け回る。各部屋は障子で廊下と隔てられているだけなのでノックすると破れるため口で「トントン」と言うのである。上級生は当然起きないからその間に食堂に行き、上級生の分のムギ飯とみそ汁を盛りつける。おかずはたくわんと納豆それも大きな器に大量に入れて醤油をかけてある。かき混ぜて順番にかけてゆくと下級生のところに回ってきたときは納豆臭い醤油だけとなる。みそ汁も同様、要するに一年生は塩分とムギ飯だけで午前の授業を受けるのである。仕方がないからじっと耐えて上級生になるのを待つ。昼も寮で食べるがこれは盛りつけてある自分の分を食べるだけだから一応平等である。夕食は原則的に下級生が用意するが、その前に腹を空かした上級生が時間になると脱兎のごとく駆けてきて、さっさと自分で用意してあっというまに平らげるので比較的楽である。

 夕食後は休憩後7時〜9時自が自習時間である。大多数の真面目な寮生は勉強するが、その他の者はいたずらや雑談で時間をつぶす。舎監もあまり回って来ないので(来ても気にしない)気楽なものが、ただし中間や期末のテストでは大いに苦労をする。朝早く自分の教室に行って(校内にある利点)カンペを書いてくる者も出てくる。我が校はカンペは即退学という噂があったので必死の思いであるが。だいたい集中して書いたものは覚えていて見なくても書けるし、たいていヤマははずれる「ヤマかけて 谷間に落ちる ウサギかな 流星」。

 校内にあるため、休み中は寄宿舎は各部の合宿所ともなる。運動部のみならず文化部も利用していた。女生徒が自分の部屋に泊まったと思うとなぜか胸がドキドキしたものだ。食事も寮生と同じものが出ていたと思うので当時の在校生は、あの、世にもまずい食事を味わった人が大勢居ると思う。しかし、効果か館長は今はこの世にある食べ物は何でもこの上なく美味しく食べられる(家族は味音痴と言うが)。また寮生以外の者が常にたまり場として利用していた。応援委員などは最たるもので、「応援旗」、「のぼり」、「太鼓」、から「扇子」などの小物から、「フクちゃん」まで置いてあった(上右の写真参照)。 

 

これは寄宿舎の三年生の送別会の一風景である。食堂の隣の団欒室(?)で行われた。ここでは、入寮歓迎会も行われた。まず、寮長の尋問が行われ。その後聖水拝飲(どんぶりに塩水を入れ米粒50粒ぐらいを沈ませておき、米粒を全部なくなるまで飲む)。とか「芸者ワルツ」などを全員で歌って。それに合わせて踊る。その後、布団蒸しの洗礼が待っている。詳しい模様は「自彊寮100年誌」と別冊に載っているので参照されたい。また、北山で行われる試胆会も新入寮生のくぐり抜けなければならない試練である。「カドヤ事件」や「見たな!」「上級生創作の怪談」などを聞かされ夜の山道を独りトボトボ登っていくのである。いくつかのチェックポイントで指示された行動をとり最後に「南部藩主の墓」で終点である。途中あれこれ仕掛けがあるが、地方から出てきた者にとっては土地カンがなく怖いというよりは不安である。今では盛岡中明かりが灯り暗闇など望むべくもない上に、映画やテレビでのホラーものを見た者も多いだろうから、いにしえのかたちの試胆会はやっても面白くもないだろう。

 写真は「ギョロケン」(世界史、ド近眼、ニコチン中毒の噂があったが真偽のほどは不明)の真似をしている星である。 

 いたずらも種々あり、他の者が寝ている間に顔に墨を塗る「墨付け」や舎監の「ノラクロaとbが居る)」が寝ている間にやる者が居た。また、寝ている間に戸板に布団ごと乗せて教室に置いてくる(一年生が良くやられた)。めがねをかけたままうたた寝しているのに赤いセロハンを張って「火事だー!」と叫んで起こす。他校の寮の看板や市内のあらゆる看板をを持ってくる(これは流石に校長直々の訓戒を喰らった)。生物の解剖に使ったイカをバケツに集めて焼いて食う。時計台の先端にやかんとひもで作った飾りを付ける(非常に危険、諭旨)。大学の農園のトウモロコシや温室のバナナを失敬してくる(これも厳重訓戒)。大学の寮生とケンカ(太鼓借りるのに)。下級生にリンゴの夜間収穫を教える。「寮雨」はどの範疇に入るか判断に迷うところである?

 「寮雨」は、天候季節にかかわらず寮の窓から人工の雨を降らせることである。これはなかなか度胸の要ることで、新入生ではちょいとやりにくい。堂々とやれるようになるには時間がかかる。右は自彊寮の不定期刊行物のタイトルとなった例である(昭和31年頃刊行)

 寮雨」は、学校としては公認しがたいことであるので、自彊寮100年誌にもその存在を示すものは載っていない。最近は左のように「寮彩」と名前を変えて公式の刊行物となっている。しかし、中身は寮雨の方が充実しているようだ。なんたって自主出版なんだから。

 

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