白堊應援團 30 > 一号館 一号室 応援歌練習其の1 Updated:20159/07/01
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 入学して最初に受ける大きな試練が「応援歌練習」である。年上の兄弟が一高生であったなら少しは内実を教えられているかもしれないが、大半はなにも知らずに入学し、「キタネェ上級生が多いドモ、マンツ俺さバ関係ネガベ」、とばかり浮かれていると大変な目に遭う。特に部活動をしない「帰宅部」や文化部所属の一年生ははさんざん絞られる。30年代の木造講堂での典型的な応援歌練習は二号室をご覧あれ。
あの輩は何者ぞ 我には紅き心あり 紅き心の熱血は 血潮の染めし応援旗 血潮に染めしその旗を 扇がぬ者はあるべきか などて刃向かう敵やある …
                                               (サウンド出典;原 秀行氏HP(midi規格))

入学後数日して、破れ帽子にボロ服の厳つい顔の3年生がにこやかに「俺は

応援委員だども、来週がらチョコッと校歌ど応援歌の練習するがらこれオベデ(覚えて)きてケロ」と、なにやらガリ版刷りの紙を置いていった。B-4の紙にびっしりと歌詞が刷られて行った。

 うろ覚えのまま翌週登校すると、それから地獄の始まりである。M旗の回転にあわせて太鼓の響きと上級生の怒声・罵声を浴びながら、すべての歌詞を3年生と同様に歌えるまで何回でも何回でも喉をからして歌い続けるのだ。33年まではブッカレ講堂に

太丸太を持ち込んで、ドシーンドシーンと床に打ち付た。足をつぶされそうな恐怖がそれに加わる。それが楽しく感じる者が次代の応援委員になるのである。(35年新体育館にて、右から2番目が星)
 古い木造の体育館は出入り口を閉じれば密室も同然だ。周りの窓も高く教師も覗くことも出来ず入り込む余地も雰囲気もなかった。上級生の独壇場でさんざんしごかれる。特に運動部に入っていない者は遅くまで残され、正座させられて運動部の強引な勧誘を受ける。いったん運動部に入ると練習と言うことで途中で助け出される。昭和32年に新体育館が完成すると、流石に太丸太の持込みはためらわれた。そこで33年頃の応援歌練習は、第2講堂(剣道場兼体操部、卓球部練習場)を使用した。ここはやはりかなりのオンボロで丸太の使用は抵抗がなかった。新体育館は二階に回廊があり、なおかつ体育教官室もあったので教師が顔を見せるようになった。上級生にとってはまことにやりにくい状況になっていった。

この頃はまだ大きめのM旗であった

旗を振る星

 

進級したら応援団になるんだと部の先輩から歌詞の読み方を教わり、必死の思いで一晩で全てを暗記して喜びにふるえながら翌日の練習に望み、何とか三年生に認めてもらおうと声を振り絞って力一杯歌う者がいる反面「こんな理不尽なことが許されていいものか、何という野蛮な学校だろう」と考える者も当然居る。特に育ちの良い女生徒に多いようであった。卒業後数十年経ってもそのようなことを言う人が居るのはよほど身にしみて感じたに違いない。中学校で恵まれた環境と使命感に燃えた教師によって戦後民主主義の素晴らしさを実感しつつ、その延長上に高校生活があると期待して入学したら、突如数十年タイムスリップしたような絶対的な権力を持つ上級生の支配する世界である。しかし、運動部に所属し練習も早めに切り上げることを許された者たちの中に、あのM旗を振ることを夢見た者たちが居た。
 応援歌練習の次の洗礼は「新入生歓迎キャンプ」である。女生徒は参加できない。山田線に乗り外山ダムまで行くが、米や野菜、缶詰、副食類はもっぱら新入生が持っていくことになる。ここで「応援委員会」と共催するのが「山岳部」である。テントの設営や炊事の指導などに活躍する。その見返りとして余った缶詰等の食料品を合宿用として手に入る。上級生はもっぱら揮発物を持って行くのであるが、もちろん監督として教師がついてくる。そこで公式にはビンの中身は水ということになっている。ここで食い、呑み、夜は焚火を囲んでストームソングや裏歌を歌い(応援歌練習と違い上級生は懇切丁寧に解説付きで教えてくれる)運動会の下地を作る、百戦錬磨の上級生に仕込まれ幼い中学生が真の一高生となっていく。

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