白堊應援團 30 > 先達館 二号室 20年代一高生活 1st Up:2003/01
  Updated:2009/07/25
Updated:2015/07/12

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ノーナマニサパヤンプリマン  ノーナマニサパヤンプリマン  ノーナマニサパヤンプリマン  ウササーノヤマガダギー  キタイナウリピネ   ウウヤワウウヤワテンヤワウ  ヤナウイレゲトイ  レゲミテニガンニワ  シゲラニサマヨウイマシゲレ  アロレロレローレ  ロレサソワー  キョエーキョエー  ヤーナアウー

 

この記事は,平成13年初頭の先輩からのメールによりまとめたものです。 星 邦彦

 
初代酋長は卒業生?

コラム(1)

 ドジン踊りのはじまり」は昭和二十四年の運動会が最初だったという説とその前の年だという説もある。以下二十年代卒業の「ある先輩」の記憶と聞き取り調査に基づいて以下の結論に達した。その先輩は、白堊通信かなにかで「創立以来のドジン踊り……」という記事を読み「ドデン(びっくり)」したとのこと。なぜかというと運動会の午後の部は現在でも同じだと思われるが、仮装行列で始まるがその準備のためのつなぎに、盛中時代には運動場の中央に畳を並べて柔道の模範演技が行われていた。ところが、進駐軍(日本はアメリカ軍を主とする連合軍に占領されていたのだ。盛岡とて例外ではない。そのために週5日制とサマータイムが実施されていた時期があるのだ)の武道禁止の命令で禁止されてしまった。そこで、「アメリカダバ フォークダンスでもやれば文句ネンデネガ」、ということで何年かやってみたが、このバンカラ学校の男子生徒が風呂敷をかぶって女役をやってみたが所詮うまくいくはずもなく、「ンだら さんさ踊りでもやってみるベェシ」と、さるお寺から太鼓を借りてきて「どんどんどろすこどーん」と西体育館でやりだした……。 時は過ぎその年の文化祭でドラム演奏(終戦直後にドラムセットとは当時ものすごく斬新であったことだろう)を披露していたY.T.さんが突然「ドンドンドン ドドドドドン」と現在まで伝わる土人踊りのリズムを鳴らしだした。すると、もう一人が思いも掛けず柔軟な身のこなしで腰をふりふり踊り始め、それを一同呆気にとられて見とれるばかりであった。そのうちどっと皆が笑いだし「コイズニスルンベー」「ンだナー」と全員の意見がまとまり、ここに今に伝わる「ドジン踊り」が誕生した。それの一部始終をある部の部室から見ていた方は、「そのとき1年生でしたが、Y.T.先輩(文化祭で太鼓をたたいた人)は2年上級で名簿に載っているのですが、酋長はどうやら卒業してからもしょっちゅう学校に来ていたK.T.さんで「黒グ塗るガラワガラネェベー」と、何年も酋長として出演したらしいのです。 もっと早い時期にも「ドジン踊り」があったという人もいます。これは、仮装行列の一つの出し物として行われたもので、組織だったものではなかったようです」とのことである。 

 

コラム(2)

 初代酋長K.T.さんという人は想像を絶する豪傑だったそうな。前述のある先輩の言葉を拝借すると「当時、盛岡高等農林、同高等工業、同師範学校が 併合して岩手大学にナッタノサ、ソゴノ教養学部テシャベッタラガイガベガ、寄宿舎のムガイノ校舎サ一高卒業シタビャリノヒタジが通うようになってス、通学のアドサギニ(前後に)一高サ顔ッコ出ス……。ついでに運動部の練習サモ参加するツーワゲデ……」知らない人は在校生か卒業生か解らないといったことがあった。初代酋長はその中の一人であったということである。「オレサヤラセロジャ」とでも言ったのであろうか、ともかくK.T.さんが初代であった。話は続いて、そもそも岩大のフェンスが出来たのは昭和三十四、五年頃で、それまでは生け垣の間から自由往来であった(館長も記憶している)。後年市議会の要職にあった某氏などは、ドジンの腰蓑用の草に大学の研究用の麦を採取して物議を醸したり(三十二、三年頃にもあった:館長)、かと思うと昼休みにそっちの草むら(岩大の雑草園と言われていた)でマーシャンに興じて叱責を受ける者が居たり、ともかく在校生もあっちに行っていたし、こちら(白堊校)にも成人に近い年齢の人も居たしでなにがなんだかホンデクテネ(なにがなんだかわからない)状態であった。また、当時偶然にも白堊校に「酋長」と呼ばれる人が居たということである。ある部に所属しそのポジションでは「名人」と言われた人で、その顔色あくまでも黒く「絵の具不要」の評判が高かった。昭和二十五年は「酋長が酋長をヤルズヨ〜」という噂が行き交ったらしい。しかし、ご当人が「オモサゲネントモ 勘弁シテケロジャ」と固辞したため結局またK.T.さんが酋長となり二代目を相務めたらしい(くだんの「ある先輩」は運動会当日の午後、友人宅の土蔵でジャラジャラとやっていたので現場は見てないそうだ(この方も相当豪傑でいらっしゃる))。

 三代目は、もう何年もK.T.さんでもなかろうと、某格闘技の部の、同年生の中でも背の低さで1,2番のT氏を酋長にして、先代の酋長の弔い合戦という筋書きににしたということである。

酋長の勇姿

 

かくして三代目酋長は紛れもない在校生である(左の写真)。首飾り、身体の模様、顔面の塗装どれをとっても素晴しい。さらに冠を見ていただきたい。本物の羽根飾りだとしたらどこで手に入れたのであろうか。我々の先輩のことだから巧妙な手段を用いたのに違いない。また、つくりものだとしらこれまた見事である。また、手に持っているのは宝剣かはたまた松明か。そして、輿の座席の側や後ろにもなにやら装飾が見える。この酋長は先導のドジンとともに歴代三本指に入るに違いない。そして初代、二代目酋長はいかようないでたちであったろうか、拝見したいものである。

 

当時のポスター
 昭和二十一年といえば、館長達が小学校に入学した年である。 確か「国民学校」といっていたが、自分の記憶違いかと思っていた。旧制の中学校の最後の入学がこのときなら、我々は一年間だけ「国民学校」に通っていたはずである。館長が最初に通った岩手郡西山村立「上長山小学校」は「風の又三郎」が転校してくるような雰囲気の学校であった。

Mの形の飾り門はなかなかのものです。

 そのような太平洋戦争直後の混乱の時代は食べるものさえままならぬこともあった。 そのなかで創立記念運動会をこのような見事な内容に仕上げたのは感服に値するものである。 運動競技の他に、数々の出し物や飾り門を少しも手を抜かずに造り、飾り、 演出した様子がうかがえる。また左の門の中央に見えるのは受付であろうか。30年代はなにやら「展示物」があったように記憶しているが。

コラム(3)

 というわけで創立以来の伝統などではないのである。当時は「もし当日寒かったら周りの土人が風邪をひくから時間を縮めよう」とか「そんなことでは、見る人が退屈するからここを削れ」とか真剣に議論を重たとのことである。「後年の新入生の強制参加など考えられず、数年後に長々と行われている踊りを見て驚かされたました。私個人の意見としては、武道禁止も遠い昔のこととなり、そこから派生した土人踊りはとうに役目を終えたものと思っています」と「ある先輩」が述べられた。
 
 

白堊幼稚園(先輩方も扮装まで徹底してます)

仮装行列(自由学校とは当時の有名な映画)

 運動会の後のファイヤーストームは「盛中」の頃からの伝統である。これで見るとまだ明るいうちからやっているということになるが、左方にまだまだ燃やすものがあるように見えるし、西体育館方向から旧校舎(鉄筋白堊城)理科室方面(30代はバックネットがあった)を望んだ写真であるが、校庭の外はほとんど家もなく(30年代でも解剖用ビッキを捕まえる田圃であった)、長時間心おきなくストームソングを歌えたに違いない

 
[先達館二号室の写真はすべて出典:昭和27年度盛岡一高アルバムです(加美山先輩提供)]
 付け加えると館長が在校中に風の噂に伝え聞いたところによると「旧制中学4年で「予備士官学校」に行き南方に派遣されて終戦を迎え、復員(帰国)後復学した先輩たちが原住民から覚えてきた「ノーナマニサパヤンプリマン……」を「ドジン踊り」のテーマミュージックとした」とのことであった。真偽はともかく、1990年代に東南アジア方面に旅行したある三四会会員が、「現地のアトラクションで子供が踊りに合わせて歌っていたところ、急にど忘れしたらしい。ところがどうも聞いたことがある歌詞で、思わず「ウタタノヤマガダギ……」と続け最後まで歌ってあげたら。ヤンヤの大喝采!よくぞ我々の歌を覚えてくれた。とその夜は大歓迎をうけ痛飲してきた」とのことである。このようなこのようなことがあると全くのうわさ話でもないような気もする。また、常磐ハワイアン(福島県にあった常磐炭坑が廃止になり、炭坑の底から湧く温泉を利用して造った施設でフラダンスが売り物であった)で、勤務先の旅行で行っていた白堊OBがたまたま舞台に上げられた。そこでエイッとばかり覚悟を決め「ドジン踊り」で習い覚えた腰のグラインドでフラダンスを踊ったらこちらも大受け、ご褒美に酒一升をもらった。などということも聞いた。ナンボ因数分解覚えても微分・積分できても、国際交流や家計の助けにはすぐにはならない。偏差値上げる勉強よりもこれだけでも「ドジン踊り」の存在意義は充分あったと館長は思う次第である。

 コラムに登場する先輩のご意見は、後輩諸君も心して聞くべきではないだろうか。「ドジン踊り」にしろ「弊衣破帽」にしろ仰々しくねじ曲げて解釈して、その本来の成り立ちからそれてしまっては全く意味をなさない。見苦しいだけである。土人が差別用語であるからまかりならんというのであれば、名前を変えてやるというのでは全く知恵がない。コーチョー、キョートーの言いなりになっているだけの白堊健児では何とも情けない。せめて「

 同人踊り」(同じ趣味を持つ仲間、すなわち同人が踊っているのでガンス)。ととぼけるぐらいのしゃれっ気が欲しいものである。「猛者踊り」というが、猛者というのは裸で体が黒い人を言うのではないと思う。見る人が見ればやっぱり差別と取る人も居るのではないか。
 かくして、先輩方は民主主義国家へと踏み出さんとし、学校統合・離散や学制改革など大きく変化する時代に、運動部・文化部もともに盛岡一高の基礎を築くために様々な工夫をし、あれこれ議論しながら模索していたのである。思うに、あの時代我が校の校歌・応援歌が不適当と言うことで強制的に廃止されなかったのは幸いである。だが、後世後輩たちが廃止になったと同様の全く違ったかたちにねじ曲げられるとはだれが予想したであろうか。

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