白堊應援團 30 > 先達館 一号室 1st Up:2003/01
Updated:2009/07/25
Updated:2015/07/12

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彼の輩は何者ぞ  我には紅き心あり  紅き心の熱血は  血潮染めし応援旗  血潮に染めし其の旗を  仰がぬ者は在るべきか  などて刃向かう敵哉在る      彼の輩は何者ぞ  元より我等が敵じゃない  陸奥に覇者たる盛高の  威力を示すは今ぞ今  威力を示すは今ぞ今  敵手を葬って帰れ友  などて刃向かう敵や在る        
 
[この館は、昭和二十七年卒の 加美山 春美氏の資料提供によるものです]

盛岡一高創世期

 白堊校の受難

 昭和二十年太平洋戦争終結と共に学校制度の変革により、創立以来六十年あまりの歴史をもつ盛岡中学は駐留米軍の指導によるアメリカ式制度の丸飲みによって現盛岡第二高等学校、現盛岡商業高校と三校統合され、岩手県立盛岡高校上田校舎となった。しかしそれは実質を伴うものではなく、校歌や帽章・徽章及び入学式・卒業式など全く別々で、わずか個々の生徒会各部が統一行動統合をとっただけである。まさに統一とは名ばかり単なる連合体にすぎなかった。当時から文部省や各県教育委員会の腰の定まらない文教政策が始まっていたのである。そのうえ、上田校舎(即ち、盛中)に通いたいのに天神町校舎(二高)や新小路校舎(盛商)に振り向けられなどの不満も出てきた。結局二年ほどで元の三校に戻ったのである。唯一残ったのは幸か不幸か三校とも男女共学(我が白堊校は三分の一が女子)となったことである(若い人達の中には盛岡二高を女子校と思っている人も居るだろうが、昭和三十五年頃までは男子の二高生が居たのである)。また、運動部では野球部が盛岡商業と合同してチームを作り昭和二十四・二十五年と連続二年間奥羽に優勝し甲子園大会出場を遂げたのである。盛中以来の宿敵盛商が慶応カラーのユニホームを早稲田カラーのユニホームに着変えたという前代未聞のことが起きたのである。あちらの校史にはどのような記述がなされているのであろうか興味の湧くところである。

 もう一つの受難は昭和二十八年「校歌改訂の件」が生徒会に緊急提案されたことである。これはもちろん否決されたが、女子の反対が意外に多かったということである。ありがたや白堊健(賢)女殿! そしてこのことは、当時の白堊校の先輩達が「忠実自彊」のもと「質実剛健・弊衣破帽」の創設以来の伝統を守るか、新しい制度のもと「ハイスクール」として新しい校風を築いていくか論議していたことを物語るもので、このような気風が昭和三十年代、映画「花紅に」の白堊校におけるロケーションの生徒会総会による否決や、60年第一次安保闘争時における「抗議デモ」決行と、伝統の校風を受け継ぎながらも論議するべきことは中央執行委員のもと生徒会において論議して決めていくという、バンカラで民主的な白堊校の校風へとつながっていくのである。昭和二十年代・三十年代は、ただ破れ帽子をかぶって暴れていたものだけが一高生ではなく(もちろんそういう者も居たが=館長)、様々な考えや行動をすべて受け入れながら新しい白堊校を作りあげつつある時代であった。

 

元気いっぱいLB会

 盛岡一高として新たな船出をした頃に、戦争も終えた昭和二十一年四月一日に旧制「盛岡中学」最後の生徒として入学し、激動期をくぐり抜け昭和二十七年盛岡一高の卒業生として学窓を旅立って行った先輩方が居た。その中のお一人である「

加美山春美先輩」(左の写真14番の選手)から貴重な資料の提供をいただき「先達館」を造ることが出来ました。我々三十年代より更にモノの乏しい時代元気に学校生活を送った先輩方の姿を来館者の皆様にご覧いただきたい。

左の写真でも分かるとおり、優勝旗やカップ・賞状と籠球部の強さは伝統的なものであった。三十年代においても野球部、送球部と並んで勝ち戦の筆頭をなしていて應援委員会としては誠に嬉しい存在であった。この時代制服はまちまちであったが運動部各部のユニフォームが揃っているのはおおきな驚きである。この後十年を待たずして、ユニフォームの新調に苦労する部が多くなってきたからである。むしろ、我々の時代の方が用具やユニフォームを手に入れるのが大変だったように記憶している。

 それにしても先輩方のパワーは素晴らしいものである。

 

 左の写真は、若き日の加美山氏

上)の所属する三年三組である。当時は制服といっても詰襟ばかりではない。上着は軍服のお古などを着用するケースも多く見られた。もちろんズボンだって父親のはかなくなったものを使用する者も居た。しかし、全員こざっぱりした加工をしている。
 [出典:昭和27年度盛岡一高アルバム]
 昭和二十七年卒の方々はLB会と名乗っておられるが、これは盛中最後の生徒即ち「LAST BOY」の略である。盛岡中学としての最後の入学生として上田の「とんがり帽子の時計台」に入り。学制改革による統合盛岡高校を経て、分離後の盛岡第一高等学校の、第一回卒業生となったのである。その間、様々な変化にも関わらず数々の競技会で優勝し、高体連総合優勝11連勝の礎を築き上げたのである。
 [写真:LB会諸氏による獲得優勝旗・優勝カップ、
出典:昭和27年度盛岡一高アルバム]

 

コラム

 我々の頃の盛岡一高は県内のスポーツ大会では、優勝して当然のように思われていましたので優勝旗も結構お粗末に扱われていて、秋のスポーツ祭終了後の優勝旗祭では、先生方を取り囲んで胴上げをするのですが、挙げっぱなしや、げんこつの洗礼もあって、優勝旗はそっちのけでしたね。 我々の卒業の年は、そういう野蛮な行為は廃止すべきだと話し合いで決まり、胴上げを止めることになっていたのですが、サッカーの室岡先生が運動会のあとのファイヤーストームに飛び込んできて胴上げになり、馬鹿真面目な某君が、やめろーっやめろーっとものすごい形相で叫んで止めさせようとしましたが、室岡先生が、いーんだいーんだと挙げられて、我々も静かにそうーっと降しましたっけ。[加美山氏談]

 サッカーの八重樫先輩はLB会のメンバーである(後列向かって左端)。 がっちりした体格は、将来の大活躍を想像させる姿である。

 野球部は2年連続甲子園出場を果たした後の昭和二十六年県大会に優勝したものの、青森において青森高校と0−0のまま24回まで戦い惜敗した。[2点とも出典:昭和27年度盛岡一高アルバム]

応 援 風 景

体育館における

壮行式(後の壮行会)服装もまちまちであるがいかにも元気いっぱいの様子がうかがえる。

 西体育館(旧控所:現在の体育館の場所にあった)で行われている。5年後のこの体育館で館長等新入生は、大丸太を持ち込んだ凄まじい応援歌練習の洗礼を受けるのである。そのときには床はゆがみ、周囲の板張りも所々破れ相当傷んでいた。[出典:

昭和27年度盛岡一高アルバム]

 

同じ時期の應援委員会の活動を展示してみたが、上の写真ではM旗の振り方が三十年代の我々の振り方に近い。この振り方が二十年代後半〜三十年代年代前半と伝わってきて、三十二年頃に統一した振り方が確立された。それは。校歌を歌ったとき最高に音パワーが相手を圧倒するリズムであり早さである。現在のように野球の試合の前の校歌・エール交換の時、白堊校がのんびりホラ貝など吹いてのたのた歌って終わったら2イニングスが終わっていた。などといったことでは相手方に失礼ではないだろうか。

 一方下の写真を見ると、旗が前方で

水平に振られている。またその大きさも相当なもので、前方でクロスする我々の方法では下に引きずって具合が悪い(上の旗でも現在の1.5倍である)。さらにこの大きさのものを振るには相当な体力が必要である。戦中・戦後の食料事情の悪さを思うと驚くべきことである。三十年代半ばの寄宿舎の飯の粗末さを経験している館長にとってはまことに身につまされる思いがする。

 市営球場における昭和26年県大会優勝の時の応援風景(於盛岡市営球場)。後方の選手がうなだれているように見えるのは、激戦の後で疲れているからである。しかし、この後青森において4時間半に及ぶ激戦を 戦い抜きながらついに1点を失い甲子園出場を逃した。[出典:白堊校80年史]

 後年(昭和三十二年)やはり県大会を征した我が校野球部が、1回戦で青森高校を破りながら次で敗退しやはり甲子園出場ならなかったのもなにかの縁か…。

 左の写真は青森において上記のような長い戦いを一喜一憂しながら応援した応援団の、感極まって大騒ぎしている様子である。 中央左方で肩を組んでいるのが應援委員達であろうか、僅か1点の差で負けたのであるが、周りを囲む応援団の方々の笑顔をご覧いただきたい。正々堂々戦った野球部とともに精一杯声を限りに4時間半も応援した後の爽快感が感じられる。野球部に限らず競技する白堊校の選手達は、肩肘張った仰々しい姿で、形骸にとらわれた応援よりも、のびのびとしてかつリズミカルで明るい応援によってリラックスし実力を出し切ることができるのではなかろうか。少なくとも三十年代まではそのように捉えていたのである。[出典:

昭和27年度盛岡一高アルバム]
 さらに左の写真をご覧いただきたい。運動会における応援風景である。運動会の場合は公式の盛岡一高としての応援活動ではないので應援委員が旗を振っているわけではないのかもしれないが、旗竿の長さとなどもユニークである。旗の振り方は、クロス振りと水平振りの中間と言ったらよいのだろうか。そして、Mの横に線が入っているように見えるのは、上方の優勝旗・優勝カップの写真の中のMの両横に一高と入った旗であろうか、応援旗も三種類有ったのか、今後博物館において調査しなければならない。

 いずれにせよ、先輩方の元気いっぱいな白堊校生活を彷彿とさせるものである。このパワーはこの後15年は続くのである。[出典:昭和27年度盛岡一高アルバム]

 

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