白堊白堊物館     本    館 資料室
白堊城絵図面
 昭和三十年代は、創立八十周年記念事業をはさみ新体育館の建設それに伴う教室の移動(物理的に移動させる)や新しい校舎の建設(それも今では旧校舎となり形はなくなる)、ならびに60年の伝統を培ってきた寄宿舎の取り壊しと校外への新築など。我が国の経済成長の急進展に合わせるように、我らが白堊城にめまぐるしい変化が訪れた時代である。分厚い木材で造られたよく使い込まれた重厚なかつ暖かみの感じられる、教室・廊下・階段・各部室などに尽きせぬ懐かしさを感じるものである。
そこで、我らが白堊城の雰囲気をを少しでも再現したいと、全景写真および平面図を復元・作成し来館者の皆様にご覧いただく次第である。
むせぶ悲憤の誓いより  幾多の星は移ろいて  我が学舎の先陣が  立てし功はいや 栄ゆ  今原頭い寄する敵  戦の庭の花吹雪  散らさで彼等帰しなば  誇りは頓に地に落ちん  北辰光冴ゆる許  白堊の城を立ち囲む  松の緑の永遠(とこしえ)に  凱歌は他人(ひと)に許さじな
右のパネルをクリックすると第五應援歌メロディー開始  ⇒
白堊城1(全木造白堊城) [白堊城平面図等資料提供:加美山氏他]

 まず、上をご覧いただきたい。我等が上田・初代白堊城の俯瞰である。左上隅はは寄宿舎三棟と食堂・賄宿舎。道路を挟んでさらに左方上部に岩手大学農学部が見える。自彊寮は左下方から第一舎、第二舎、第三舎と続く、第一舎と第二舎1階までが生徒の寄宿舎で、第二舎二階と第三舎が教職員宿舎となっていた。これは戦後の住宅事情と学区制や生徒数の減少により戦後にとられた処置で、新寄宿舎の建設とともに解消された(そこに居た職員の子弟が盛岡二高に通っていたので「一高から二高に通う」といった事態が生じたわけである)。

 下の見取図は、上方の俯瞰を平面図にしたものである。俯瞰資料は「36年度アルバム」より。また、平面図は館長の所蔵する写真その他の資料に基づいている。位置関係および大きさについてはできるだけ正確に再現するように種々の資料を付き合わせてあるが、来館者各位におかれまして気づかれたことがあれば、お知らせいただければ幸いです。それをもとに逐次資料を改新していく所存であります。
 なお、図に記された色文字や記号については図の右側の凡例や各館の注釈を参考にしていただきたい。また、ここの展示室においても解説するつもりである。

白堊城城内絵図面


:校長室

:職員室

:一般教室


:宿直室

:用務員室



:廊下

:便所

:女子更衣室・手洗室


:自彊寮
:西控所(講堂)
:東控所(剣道場)

注)@左側黄色い点線の所に新体育館建設
  A右下黄色い「
」は移動した家事室
   右側の部室は上よりサッカー、
   ハンドボール、硬式野球、軟式野球、
   ラグビー(数々のい逸話あり)

白堊城敷地見取図

 80周年記念校舎は左寄宿舎上部から、
テニスコート、バックネットにかけて建
っていた、120周年記念校舎は、上の見取
り図の「
」「」部分から右を占めて
いることになる。プールの辺りは白堊記念館)

白堊城、部室の配置

:家事室
:音楽室
:美術室
:水泳部
:バスケットボール

:アイスホッケー
白堊予備校
:生物室
1:写真部
:天文部
:化学部(化学実験室)
:物理部・地学部(理科室)
白堊城二階

:中央執行委員室

:新聞部

:図書室

注) 2階の中央よりの教室は文化部の部室(文研部、社研部)として使われていた模様であるが、正確な情報のある方の資料提供を歓迎する
 次に下の「白堊城2」をご覧いただきたい。白堊城敷地見取図注)@で説明した通り黄色い点線で囲われた部分に体育館が建っている。悲しいかな、太丸太を持ち込んであの耳を聾するばかりの迫力をもって行われた「応援歌練習」の場、映画「花 紅(くれない)に」のロケ撮影に校舎を貸すことを否決した生徒会総会会場、遡って某先輩が「ドジン踊りのはじまり」を目撃した部室、応援団による壮行会会場等々多くの思い出がしみこんだ西控所(体育館)が消えてしまった。
 また、右下方東控所(体育館)の上方の白い屋根@は白堊城城内絵図面
注)Aで説明した、寄宿舎前より校庭を横切って(電子掲示板に登場する「ハドヤマサン」の歩くコースを逆に辿って)移動した黄色い」:家事室で主に定時制の食堂として使われたが、早い時間から開いていていて、昼食のパンや牛乳が売られていた(S35年頃)。また、どういう訳か灰皿も置いてあった(定時制には成人の生徒も居た?)ので、喫煙室だと思っていた者は多い。ラグビー部の部室の2階でコソコソとやらなくてもよくなった。もちろん全日制にも成人の生徒は居たのである。
 家事室とは、終戦直後の三校統合などが行われた混乱期に、盛岡第二高校に間借りしていた盛岡女子専門学校(現岩手大学)が、上田校舎に移転するという何ともおかしな計画が立てられたという話があり、急遽家事室を建てたらしい(盛中時代の平面図には無い)。その時西体育館脇の女子更衣室・手洗いも作られたと思われる。それが偶然にも女子生徒の受入れがスムーズに行われた原因の一つと考えられる。
白堊城2(新体育館完成)
 それでは白堊城のあちこちを見てみよう。白堊城城内絵図面1からの光景(下左写真)は、かの有名な運動部部室で左からサッカー部、この部室の前では1年生の時某1年生部員がしょっちゅうサボッたので連帯責任で館長、奥村君(後にラグビー部、スキー部、駅伝・砲丸投げ選手、応援委員)、林君(現白堊校教諭、サッカー国体出場)、富永君(サッカー国体出場)、菅田君(サッカー国体出場)が並んで長い時間正座させられて説教された。下がコンクリートで非常に痛かったきおくがある。その右がハンドボール部、硬式野球部、軟式野球部以前は農具室(戦時中校庭で作物を植えた)ということである。みぎはじ右端の一部見えているトイレの陰がラグビー部。うるさい目がないので部室の天井裏部屋の窓から紫煙が……。「火事になったらどうするんだ。きつえん喫煙室でやらんか!! 喫煙室で!!」と部長が怒鳴ったとか。真偽は定かでない。女生徒には白堊城唯一のブラックホール。次にから見た家事室(白堊城城内絵図面:下右写真)その向こうが音楽室、そこを迂回して運ばれた。左方に自彊寮の入り口がある。

白堊城城内絵図面

から見た自彊寮「」の全景が左の写真である。左から第一舎、第二舎、第三舎。第一舎、第二舎1階が生徒用宿舎、第二舎2階、第三舎が教職員用宿舎出会った。右方のポプラの向こうに見えるのが娯楽室・食堂の建物。自彊寮は運動部各部の合宿によく使われた。夏休みや春休みの寄宿生が帰郷している間に合宿所として各部が利用するわけである。敷地内にあるので便利この上ない。

 宿舎での様々な出来事も20〜30年代の白堊健児には 楽しい思い出として残っている。それらについては二号館において一部紹介されている。後日絵図面とともに出来事をさらに紹介していきたいと思っている。

機会があれば、白堊城内の案内はさらに続けたいと思います。

館長

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